昭和50年04月06日 朝の御理解
御理解 第67節
「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
くぎづけではないと言う事は、いつも変わって行かなければいけない。勿論何の場合でも同じでしょうけれども、上達して行かなければならない。又はより本当な事へ進んで行かなければならない。くぎづけではないと言う事はそういう事だ。信心も銘々にしておらねば長う続かん。というてそれを第三者的な見方で、あの信心は間違っておる、あんな事ではいけないと言う様な事もないというのです。その人がそれを本当だと信じて、おかげを受けて行っておればそれでよいのだと。
金光教の信心の中にも様々あります。大変御比礼を頂いておられる教会で、とにかく病気はドンドン治る。そこの先生は指圧的な事病人の体に触れられる。そして別室でそれこそ帯紐を解かせて体に当ってやんなさる。そうすると不思議に治る。とにかく何千人の信者を擁しておられます。やっぱりそれでも金光教の信心です。かと思うと非常に御祈念力が強い。信者の事を一晩中でも祈って願ってやりなさる。確かにおかげを頂くというので、大変な御比礼を頂いてある。
合楽のようにただ御理解一本。只々教祖様の御教え教典を中心にして、私が二十五年間たった是だけの教典。是を説いて説いて説き聞かそうとしておる。まあだ私が一生掛ったって教祖様の御教えとは、もっと広い深さを持っておるものだと、説けば説く程思うんです。だから合楽の毎朝の御理解が、同じと言う事がない。と言う様な生き方で段々御比礼を頂いておるいう教会も、どれが本当だと言う事はないけれども、銘々にしておかなければ信心は長う続かん。
けれども是を私が言うならば、御祈念力だけで助かったら助かる確かに。けれども御祈念の強い先生が亡くなられたら、後はどうするかと言う事になる。それは久富繁雄さん当りなんかでも、そう言う様な感じですよ。あちらがこうやって当たってあげられると、痛い痒いが治るというのですから。そういう一つの霊徳的なものですか、それで沢山な信者が助かっておる。それも勿論金光様を念じながらそうされる。
それは沢山の人が助かる。けれどもそういう特殊な霊能者的な先生が亡くなられたら、後はそれでお終いにならなきゃならない。そういう意味で私は合楽で教えを頂く。しかもその教えの広さ深さに段々触れて行く事によって魂が清められる事によって、信心が愈々奥側へ奥側へ進んでいく事が出来る。昨日壮年部会で秋永先生が言っておりましたが、この頃合楽教会の信者と言う事だけでなくて。
筑水連合会でも総務部長をしておられます。九州の偉い御信者方ばかりが、それも各教会からではなくて、この辺からはここだけでしょう。ここからは綾部さんと秋永先生が二人出ております。と言う様な大きな広い見地に立っての、お話をしなければならんのに、自分が思う様にお話が出来ないと言う事が残念だという意味の事を話ております。それは、実を言うたら私も同感だと、私もそう思います。こんなにも間違いのない、こんなにも素晴らしい信心を、皆に合点させる。
例えていうならば、合楽示現活動なんかという、そういう活動に参画する事によって、自他共に本当に助かって行けれる道が開けて来たのですから、これを全教の人達に、徹底してわかって貰える手立てはなかろうかと思う位に思うけれど、中々そういう手っ取り早い事になって来ない。これは余談ですけれども、その事を昨日最後の御祈念の時に、お願いさせて貰いよりましたら、まず第一節がよい声がよい。これは唄の場合です。その曲がよい誰でも口ずさみたくなる。
特に流行する歌なんかと言うものは、第一歌詞もよい曲もよい、それでも下手な歌手が歌うたら流行らん。それを上手な歌手が歌うから、はじめて流行って行くのである。合楽でも段々曲やら節やらは最高と、私が思うておる位に良いのですから、これを本当に声のよい人が、歌う人が現れるのを待つより他にないような感じが致します。全国を風靡する程しの、力も持った人が現れて来るのを待つより外にはない。と言う様な事を頂いたんですけれども、と言うて拝み信心じゃいかん、御祈念信心じゃいかん。
又は手を触って病気が治ると言う様な事は、それは金光教じゃないと言う風には思わない。また尊い事は人が助かるんだから。けれどもそういう教会の方達が、もう一つ釘づけではないのだから、これが私の方の流儀と言わずに、もっとよい流儀があるなら、それに移って行けれる信心を願わなければならんと言う事であります。昨日も壮年部会で話し、又読んで貰ったんですけれども、四五日前ある教会の先生。これは全国でも大変有名な教会であるし、有名な先生で非常に頭のよい先生らしいんです。
その先生から分厚い手紙が来た。便箋五六枚それも裏表びっしり書いてあるから、便箋十枚にも及ぶというような長い手紙でございました。そこの御信者さんが、先日から遠方ですから泊まりかげで参ってきた。この人はどうにも出来ない持病があった。それが一晩泊まって月次祭を頂き、そして翌日の朝の御祈念を頂いて帰った時には、その不思議な病気が全快のおかげを頂いておった。それが有難とうして有難とうして応えんもんだから、自分の教会に帰ってその話を話す。
人にもどんどん吹聴する。とにかく合楽の先生は偉いと言うてまわった。所が穏やかでないのはそこの教会長先生であります。ところが時も同じゅうして、そこの御主人というのが、一寸ノイロ-ゼ気味であった。それから私の話を聞いてえらい口走られるようになった。合楽の先生何とかかんとか。夜中にやって来て教会で、色々な事を言われるようになったと言うのです。
それで本当に私を非難し、又は私に縋りそういう内容の手紙でした。とにかくその人がもし参って来たならば、どうぞ「親に頼め」と言うことを、たった一言いうて下さいとこう言うてある。最後のにきなんかは悲しゅうなって来た。大坪先生とこう呼びかけて大坪先生、私共の様な小さな教会ではです。一人の信者が他所にお参りをするとか、無くなると言う様な事は、大変困った事なんだと。
又は家の米の飯より他所の麦飯の方が良いと言うて、まるきり合楽を麦飯扱いに書かれたり、又はその信者夫婦の事を、これ以上の悪口雑言はなかろうと言う様に、その信者がつまらん信者で口ばかりの信者でと言う、それがというて年に何回しか参って来ない信者と言う事。たった年に何回かしか参って来ない、その信者に対してでも、それだけ熱心なあれだけの手紙を書くだけでも、この先生が如何に熱心かと言う事がわかる。
だから本当にこういう素晴らしい先生が、本当に合楽の信心に一度帰依されたら、それは素晴らしい御比礼が立つことであろう。願わくば一遍お会いしたいなぁと私は思うた。私はそれに対して、こういう簡単な手紙を書かせて頂いた。「お手紙拝見致しました。この度は○○さんの事で、先生はじめ御信者の皆さん、御心配の御事総祈念をなされ、尊い事と感じ入りました。
今後の事先生のお申し越しの事万事承知仕りました。お手紙を頂き終わって感じました事は、御信者の様々な動きそのもの全てが、先生の御取次御御祈念の中にあり、起きておる事ですから、大みかげの元になる事と思わせて頂きました。先生のお手紙を頂くたびに私自身、色々と教えられる事ばかりで御座います。先ずは御返事のみ。」そして私が病院に行ってはならないとか、医者に掛ってはならないと言う事を言うた、それは本当か嘘か解らないとカッコして書いてある。
その事について返事をすると、如何にも言い訳をするようであるから、私の信条ということで書いた。私の病人に対する信条姿勢、それは神様に頼んだら神様まかせ、医者に掛るなら医者まかせで祈れ、是が私の病人に対する、取次姿勢でありますと言う事を書いてある。ですから本当に自分が、一生懸命自分の子供の事を祈り、信者の事を祈りお取次をさせて頂いて起きてくる事なのだから、それもおかげという様な大きな頂き方をしたら、心が安らぐだろうと思うです。
自分のお取次の中にあの信者が合楽に参ったんだから、返ってそれがおかげと頂けるのだろうけれどもそういう頂き方。そこん所を私は先生がお取次をなさって、そして御祈念をなさってから、信者の上に起きて来た事だから、必ずそれがおかげの元になるだろうという風に、私は言ってやったんですけれども、だからこう言う事なんかでもこの先生がもしこのままで行かれたら、それこそどんなに頭がようても素晴らしゅうて行き届いておっても熱心であっても、この全部を備えておられるんです今のこの先生は。
熱心なんだそうであってもそれは箱庭に植えた、箱庭的な信心になってしまうでしょう。私の生き方で行ったらそれこそ大地に根を下ろす様な、おおきな鬱蒼とした大木も育って行く事の出来れる方なのです私の生き方は。だからそれがいかんのではない。それで良いのだけどそのままではいけない。釘づけではいけないというのです、問題は皆様の信心でもそうです。是だけ沢山のご信者の中にそれこそ百人百様です。
合楽ではただ御理解を頂くと言う事が芯になっておる。にも拘らず毎日参って来ても、どうしても御理解を頂かない人があるんです。不思議ですけれどもそれはそれで良いです。御用だけすれば良いと言った様な人もあります。教えは頂かない。ただそれでおかげは頂くんです。けれども信心はそういう人達に、私が押さえつけるようにして言うたら、合楽の信心に反発するようになるかもしれません。だからそれはそれなりで良いですけれども、これは頂く者の側としてです。秋永先生じゃないけども。
昨日言ってましたように、こう言う事を言ってました。親先生がいつも言われるように、あの世この世を通して、おかげの頂けれる道を、この世に居る間に本気で身につけておけよ、魂を清めておけよと言われるから、まちっとましな清め方を身につけたい。是は一生それを思い続けるだろうと思います。それは如何にこの神様が魂を清めると言う事。信心は本心の玉と研ぐものであり、日々の改まりが第一であると言う事を、解っただけでなくて、神様を信じて解ったからこのままではいけない。
もちっと増しな清め方が出来、改まりが出来なければいけない。でなかったらもう間に合わん。何年後いつまで生きるか解らんけども、あの世に行く時にはもちっと増しな自分になっとかなければいけないという意味の事を言っておられます。これは神様の教えを頂いて、それを行に取り組んで、神様を信じておるから、そう言えたり思えたりするのです。皆さんもそうでなからにゃいかんのです。今のまではいかんのだ。私は皆さんを見てそれで良いと思うです。釘づけではない銘々しとらなければ長う続かんのです。
あなたは誰の真似をしなさい、彼の真似をしなさいと言うても出来のです。私が言う通り私が真似をしなさいと言うても出来んのです。だから信心が続くのです。続いておるのが同じ事で、何時までも続いておってはならないと言う事です。それを秋永先生の生き方でするなら、絶対進めて行かなければおられないのです。研ぐというのですからどれだけ研いても研いても研き足らんと言う様な事になってくるのですから。このお手紙の主である所の先生の教会がです。本当に鉢植え的な箱庭的な意味でなら。
素晴らしい盆栽に見えるでしょう。箱庭が綺麗になるでしょう。でもそれはどこ迄も鉢植え的なもの箱庭的なものであります。ですからそれを一度大地に下ろす生き方を身につけられたならば、私とこうして手紙の上では、何回かこうやって手紙の交流を致しておりますから、是非一遍こちらにも来てご相談したいと言った様な事が書いてありましたが、見えて相談をされる相談を受ける。その中にお互いの信心の交流が出来て。ああ是は自分の生き方よりも合楽の先生の生き方が方が本当だと気づかれたら。
素晴らしい事だろうと思います。釘づけではないのですから同じ所に止まってはならない。けれども信心は銘々な物でよいのである。でなかったら長う続かんというて自分の流儀と言う事にその殻の中に入ってしまったら、それは小さい信心と言わなければならん。自分の生き方より本当な物を、そこに発見したならばより本当なものへすっと入って行けれる素直さが信心には必要である。そこん所を釘づけではないと教えておられますね。
どうぞ。